―予防医学型パーソナルジムを運営する私の現場から―
あの時期、私は毎日のように「明日は営業できるのか?」という問いを抱えながら目を覚ましていた。
福岡で予防医学型パーソナルジムを運営している私にとって、コロナ禍は単なる売上減少ではなかった。営業の可否、顧客との接触、スタッフの雇用、すべてが政策一つで左右される状況だった。前日まで通常営業だったものが、翌日には時短要請や休業要請へと変わる。しかもその方針は一度決まってもすぐに修正される。「とりあえず様子を見る」という判断すら許されないほど、状況は流動的だった。
ある日、継続して通っていたお客様から「しばらくお休みします」と連絡が入った。感染への不安、社会的な空気、家族からの反対。その理由はどれも正当で、引き止めることなどできなかった。しかしその一本の連絡は、単なるキャンセルではなく、長期的な関係性の断絶を意味していた。パーソナルジムは「継続」によって価値を提供するビジネスである。だからこそ、一度途切れた関係を取り戻すのは簡単ではない。
それでも固定費は毎月変わらず発生する。家賃、人件費、設備費、リース。売上がゼロに近づいても、支出は一切止まらない。この構造は、一般的な不況とは明らかに異なる。需要が自然に減少したのではなく、政策によって「強制的に需要が止められた」状態だったからだ。
さらに厳しかったのは、政府の対応が一貫していなかったことである。緊急事態宣言の発令と解除、時短要請の延長と変更、補助金制度の新設と改定。その一つひとつが、現場の意思決定を根本から揺るがした。設備投資をすべきか、広告を止めるべきか、スタッフを維持するか縮小するか。本来であれば中長期的な戦略に基づいて判断すべき経営判断が、すべて短期的な「対応」に追われることになった。
特に問題だったのは、支援策のタイミングと設計である。売上は今月消えるのに、給付金が入るのは数ヶ月後。この時間差は致命的だった。資金繰りに余裕のない中小企業やフリーランスにとって、「あとで支給される」という約束は現実的な救済にはならない。また、申請条件や書類の煩雑さも大きな障壁となった。日々の運営で手一杯の事業者にとって、複雑な制度を理解し、正確に申請すること自体が大きな負担だった。
さらに、業種ごとの支援格差も無視できない問題である。飲食業に対する支援は比較的手厚かった一方で、ジムやサロン、教育・指導系のサービス業は「グレーな位置」に置かれた。同じように売上が減少しているにもかかわらず、支援の有無や金額に差がある。この不公平感は、現場のモチベーションを大きく低下させた。
そして何より深刻だったのは、精神的なダメージである。努力しても状況が好転しない。正しいことをしているはずなのに報われない。政策に振り回され、自分ではコントロールできない要因で事業が左右される。この無力感は、単なる経済的損失以上に大きな影響を与えた。実際、同業者の中には廃業を選んだ人や、心身のバランスを崩した人も少なくない。
フリーランスに至っては、その影響はさらに深刻である。雇用保険や休業補償がないため、収入が途絶えた瞬間に生活基盤が崩れる。イベントの中止、契約の打ち切り、顧客の離脱。これらが連鎖的に起こり、「ゼロになるリスク」が常に現実のものとして存在していた。
この一連の経験から強く感じたのは、日本の制度が「病気になった後の対応」には強い一方で、「健康を維持するための取り組み」には十分な価値を与えていないということである。私たちのような予防医学型のジムは、本来であれば医療費削減や健康寿命の延伸に貢献する存在である。しかしコロナ禍においては、「不要不急」という一言で切り捨てられた。
ここに、大きな構造的な矛盾がある。
もし本当に社会全体の健康を守るのであれば、運動や栄養指導、生活習慣の改善といった予防的な取り組みは、医療と同等、あるいはそれ以上に重要であるはずだ。それにもかかわらず、制度上はそれらが十分に評価されていない。その結果、健康を支える現場が疲弊し、長期的には社会全体の医療負担を増加させる可能性すらある。
今後必要なのは、単なる補助金や給付金ではない。重要なのは「一貫した方針」と「予測可能性」である。事業者が中長期的な視点で意思決定できる環境を整えること。そして、予防医療やフィットネスといった分野を社会インフラとして位置づけ、制度的に支援していくことが求められる。
コロナ禍は、多くのものを奪った。しかし同時に、社会の構造的な課題を浮き彫りにした出来事でもある。この経験を一過性のものとして終わらせるのではなく、次の時代に活かすことができるかどうか。それが、これからの日本に問われている。
そして私は、現場に立つ一人のトレーナーとして、これからも問い続けていく。
本当に守るべきものは何なのか。
本当に必要な「医療」とは何なのか。
その答えは、制度の中ではなく、現場にあると確信している。